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東北へ行ってきました🛻🌿

こんにちは。

気温寒暖差がある最近ですが、皆さん体調などはいかがでしょうか。

今回は、文章を書くのが苦手なわたくし荒川恵理子がブログを書かせていただきます。

 

 

6月4、5日に社長が1泊2日で福島県と岩手県へ佐久間(未稀)と私を連れて行ってくださいました。そのお話を書かせていただきます。

 

1日目は、東日本大震災の時に被害に遭われた福島県の南相馬へ行き植樹のお手伝いをさせていただきました。私自身、被害に遭われた場所へ行くことも初めてで、植樹というものも経験したことがなく、何をどうしたら良いのか全く想像ができませんでした。

現地に行ってみると、ボランティアで集まっている方々が10人ほどいらっしゃり、週末に植樹する前の下準備の細かい作業をされていて、私達もそれをお手伝いさせていただきました。週末の植樹の時には400人ほどの方々が来られるようで、その大きなイベントの下準備として、このように細かい作業があること、そしてその作業をやっている方々なしでは植樹はできないのだなと思いました。そんな作業を微力ながらお手伝いさせていただけたことが、とても新鮮で貴重な時間で、充実した1日となりました。

   

 

それから宮城県の気仙沼のホテルへ向かいました。

そして少し時間があったので外を走っていたら、もし津波が来たらその時の避難場所の看板が色々なところにあったり、ホテルの壁には津波が来た高さに線が引かれてあったりと、この場所でも多くの被害があったこと、津波の恐ろしさを想像することができました。

 

 

そして2日目は、岩手県の陸前高田市へ行きました。小山史織ちゃんというサッカーをやっていた高校生のお家です。そこは、私が行きたいところでした。東日本大震災が起きたその数日後の日刊スポーツの1面に『未来のなでしこ死す』という大きな見出しがありました。その見出しとそこに載っている写真を見た瞬間に、サッカーをやっていた子だということが分かりました。それは小山史織ちゃんという子が津波でお亡くなりになったという記事でした。そしてその記事を読んでいったら、その彼女の宝物がJヴィレッジで直接書いてもらった荒川選手のサインだったというのを読み、私は何とも言えない気持ちになったのを今でも鮮明に覚えています。そして、日刊スポーツ新聞のその記事を書いた記者の方に連絡をしたら、「連絡してあげてください、喜ぶと思います。」と言われ、連絡したい気持ちと、なんて言葉をおかけすればよいのかという気持ちで、なかなか連絡することができませんでした。結局連絡したのは1ヶ月後くらいになってしまいました。その時所属チームが浦和レッズだったので、私が着ていたユニフォームとお花と、お手紙を送らせてもらいました。

それから毎年3月11日にはお花を送らせてもらっているのですが、逆にサンマを送っていただいたり、お電話で話すといつも私が勇気づけてもらえることが多いです。

 

 

2011年に私は脛の疲労骨折になってしまい、ワールドカップにチャレンジすることができなかった中で、なでしこジャパンはワールドカップで優勝して、東北の皆さんをサッカーで勇気づけることができたことは、言葉があっているかどうか分かりませんが、羨ましく思いました。私は復帰して来年の2012年のロンドンオリンピックに出場して、活躍している姿を史織ちゃんのご家族に見てもらいたいと思っていました。ですが、私は選ばれることができませんでした。そして史織ちゃんのお母様にお電話してその報告をしたところ、逆にすごく温かく、ありがたいお言葉をかけていただき、涙が溢れてしまい、それと同時にもっと頑張ろうと前向きな気持ちにさせていただいたこともすごく覚えています。

 

史織ちゃんのご家族には電話などではお話することはありましたが、お会いすることは初めてでした。ご両親とご祖母様がいらっしゃっていて、初のご対面で私は、やっと来ることができたんだという気持ちと、とても喜んでくださることに嬉しい気持ちと、それを横で見ている未稀(佐久間)が涙を流してくれていて、そんな未稀とも一緒に史織ちゃんのところに来ることができて、本当に良かったなと思いました。

 

史織ちゃんにお線香をあげてから、史織ちゃんのサッカーのお話、お友達のお話、その他にもいろいろなお話をしていただいたり、震災当時のことをお話してくださいました。私は、お聞きしていてただただ目から涙が出てくるばかりでした。思い出したくないようなお話や経験されたお話をしてくださいました。震災を経験された方の生の声というものは、私達が想像している以上のものでした。

 

そして、史織ちゃんのお墓にも行かせていただきました。ずいぶん時間がかかってしまいましたが、史織ちゃんに直接会うことができて本当に良かったです。小山家の皆さんはとても温かく迎えてくださり、このご家族の中で育った史織ちゃんはどういう子だったのかな?直接会ってお話してみたかったなと思いました。このご家族の中で育ったら間違いなく、素敵な方なんだと思います。ご祖母様がおっしゃっていました。「史織はなぜか人に好かれるんだよね」と。今でも友達が来たり同級生が子供を連れてお家に来られるそうです。本当に自慢の娘さんだったんだなと思います。

「今日は史織がすごく喜んでくれてると思います。」と言っていただけました。

私の方が本当に勇気づけられて、もっと頑張らなきゃという気持ちにさせていただきました。そんな思いと共に別れもなんだか名残惜しく感じてしまいました。

そして、陸前高田市と南三陸町の被害にあった場所にも連れて行ってもらいました。私は初めて訪れた場所でした。陸前高田市も南三陸町もその場所は海から堤防が作られて、特に南三陸町は何もなかったように、晴れ渡る青空の下、すごく広大な草原が見渡し良く広がっていました。そして何もなかったように、綺麗に舗装されている道ができていました。そしてそこには綺麗な資料館もありました。陸前高田市にはポツンと気仙沼中学校がそのままあったり、その広い草原からは奇跡の一本松が凛々しく立っていて、そこから海側に行ったところには陸前高田ユースホテルが震災遺構として保存されていました。南三陸町には防災庁舎が骨組みのまま残っていて、階段の骨組みは歪んで残っていました。とてつもない被害がここにあったのだろうと想像はするのですが、私の遥かに想像以上のものなんだろうなと思いました。そして資料館でもその当時のことなどを詳しく見学することができて、津波の恐ろしさなど自分が思っているものでは済まされませんでした。連れてきていただけて、2日間本当に貴重な経験ができました。

 

最後になりますが、連れて行ってくださった木村社長には本当に感謝でしかありません。

木村社長は、東日本大震災が起きた2週間後に、何がどうなっているか分からない状況にも関わらず、車を走らせ、ただただ人を助けたい思いで被災地に向かったというお話をしてくれました。そして、毎週末の金曜日の夜に被災地へ行き、ボランティアをして日曜日の夜に帰ってきてという生活をしていたとお聞きし、行動力のすごさと、そんなことができる人がいるのかと思いました。そして毎年3月11日に被災地に訪れていることもお聞きしました。そんな木村社長だから、私に声をかけて連れて行ってくれたのだなと思いました。声をかけていただかなければ、自分で行動して来ることはできなかったと思います。そんな木村社長の元に居られて本当に幸せに思いますし、今の私がサッカー選手としていられているのも本当に感謝でしかありません。

3人旅は本当に最高な時間でした。

 

 

本当にすごく濃厚な2日間をこのオフで過ごせたことを力に、私もピッチの上でお返しできるように頑張りたいと思います。

長くなってしまいましたが、読んでいただき本当にありがとうございました。

東北旅の話は次回も続きます☞

 

荒川恵理子

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