こんにちは!
連日突然の雨、雷、、、かと思ったら酷暑🥵という日々なので、体調管理が難しいですが、皆でこの時期を乗り越えましょう😌
前回に引き続き、東北での活動についてお届けします。
今回は、東日本大震災で17歳という若さで亡くなられた小山史織さんのご家族とのご縁についてです。荒川選手に憧れ、大切にサインを保管してくださっていたことがきっかけとなり、繋がったかけがえのないご縁です。そのご縁を大事に育みながら、今回も東北を訪れることができました。この出来事や、この時間を通して感じた想いなどを、木村社長、そして荒川選手よりお話しさせていただきます。
【社長 木村】
6月8日の夜は、東日本大震災で17歳という若さで亡くなられた史織さんのお母様と食事をさせていただきました。
人との出会いは偶然なのか、それとも必然なのか、不思議なもので、私が災害ボランティアや、津波の到達地点に毎年桜を植える活動を続けている陸前高田市で生まれ育ち、生涯を終えたのが史織さんでした。
東日本大震災は、何の罪もない人々の命や生活を一瞬で奪い去りました。その自然の猛威は、私達の想像をはるかに超え信じがたい事実であり、今でも思い出すたびに胸が締め付けられます。普段はあまり震災についてお話することはありませんが、お坊様から「故人のことを時々お話しすることも供養になります」と教えていただきました。
本日は史織さんのお話をさせてください。
中学生だった史織さんは、福島県のサッカー施設であるJヴィレッジで女子日本代表の合宿に来ていた憧れの荒川恵理子選手に会い、サインをもらいました。家に帰ると、「かわいい声をしているんだよ」とご家族に嬉しそうに話していたそうです。
2011年3月11日、大地震が発生しました。史織さんは、お母様が勤務する陸前高田市役所へ向かいました。避難する最中、外から大きな悲鳴が聞こえ、身を寄せ合うところに大きな黒い津波が押し寄せてきました。津波の勢いに繋いでいた手は引き離され、そのまま津波にのまれてしまいました。お母様は必死に何かにつかまり流されながらも、なんとか救助され怪我はありましたが一命は取り留めました。史織さんはスポーツ万能で水泳も得意でした。なので「きっと大丈夫」そう信じながらお母様は各避難所を訪ね、史織さんを探し続けたそうです。
停電や通信障害で情報は何もなく、道路は瓦礫や地番沈下で寸断されるなど、町全体が混乱していました。震災から一週間後、知人から「史織ちゃんが見つかったよ」と聞き急いで避難所へ向かいました。しかしそこにいたのは、変わり果てた我が子だったそうです。「生きている」と信じ続けたご両親の想い、そして「遺体だけでも見つかってよかった」という複雑な気持ち。誰が悪いわけでもない、それでも受け入れがたい残酷な現実でした。
その後、「未来のなでしこ死す」という見出しで、「荒川選手のサインが宝物だった」という内容の新聞記事を目にした荒川選手は、記者を通してご家族と連絡を取り、当時所属していた浦和レッズのユニフォームを史織さんへ贈られました。それがきっかけとなり、ご家族との交流が始まり、今でも毎年3月11日にはお花を届け続けているそうです。
当時、多くの家が流され、家族や友人を亡くし、農家さんは田畑が瓦礫と塩害で、漁師さんは船や網が流され、工場や商店街なども崩壊し、機会や冷蔵庫などは泥だらけとなり、再建の見通しも立たない絶望な状況でした。しかし、そんな絶望の中にあっても、仮設住宅のそばにある遊具で遊ぶ子供たちの姿を見たとき、「大人たちがもう一度立ち上がるお手伝いをしたい、少しでも支えになりたい力になりたい」と強く思い被災地へ通い続けました。人手の足りない中で現地を離れるたびに、「このまま帰っていいのだろうか」とサービスエリアで何度も引き返そうかと迷いました。家に帰れば温かい食事があり、ゆっくり眠れるベッドがあり、いつでも入れるお風呂があり、一人になれる部屋があります。その何気ない日常がどれほどありがたいものか実感するとともにどこか罪悪感のような気持ちも抱きました。避難所には、泣く場所さえなく、深い喪失だけが漂っていました。なんて言葉をかけていいのか・・・「頑張ろう」「大丈夫」そんな言葉を簡単にはかけられませんでした。失ったものがあまりにも大きすぎたからです。
史織さんのお母様も、ご自身が被災しながらも、市役所職員として混乱する地域の方々のために懸命に働き続けました。そして震災から3年が過ぎ、復興が順調に進み始めたころ、張りつめていた気持ちが緩みました。さらにその年は、本来であれば史織さんが20歳を迎え、成人式に出席するはずだった年でもありました。言葉にできない想いを抱えながら、体調を崩され市役所を長い間お休みされたそうです。
1000年に一度ともいわれる未曾有の大災害。この時代に生きる私達は、この出来事から何を学び何を未来へつないでいくべきなのか、今一度、一人一人が考え、行動を移すことが大切なのではないでしょうか。
改めて、東日本大震災で亡くなられたすべての方々へ、心よりご冥福をお祈りいたします。どうか安らかにお眠りください。そして、すべての人が平穏で穏やかな日々を過ごせることを、心から願っています。
【荒川】
今年も、小山史織ちゃんのお墓参りを予定に入れてくださった木村社長には、本当に感謝しています。さらに、「ホテルで史織ちゃんのご家族を招いて一緒に食事をしよう!」と言っていただき、そのような貴重な機会をつくっていただけたことにも感謝の気持ちでいっぱいです。当日はご都合により、史織ちゃんのお母さんがお一人でホテルまで来てくださいました。お母さんは、とても物腰が柔らかく、雰囲気が温かく、本当に優しい方です。その優しく穏やかな声を聞いているだけで心が落ち着くような、そんな素敵な方です。食事をしながら、震災当時のことを詳しくお話してくださいました。
市民会館で史織ちゃんと一緒に避難していたこと、そこで津波により離れ離れになってしまったこと、ご自身も津波に流されてしまってから救助されたこと、そして史織ちゃんを必死に探し続けたこと、その一つ一つのお話は、私の想像をはるかに超えるものでした。当時のことを思い出しながらお話してくださることは、とてもお辛いことだったのではないかと思います。
震災から15年という月日が経ちました。私が感じる15年と、お母さんが歩んでこられた15年は全く違う重みをもつ15年なのだと改めて感じました。会話の中でお母さんは「震災直後は気持ちも大丈夫だった。でも3年くらい経ってから、不安でたまらなくなり、眠れなくなり仕事も長い間お休みした」と話してくださいました。
私はそれを聞いた時に、あることを思い出しました。
以前、お母さんとお手紙のやり取りをしていた時、「時間が経てば辛さや悲しみも少しずつ和らぐと思っていたけれど、実際は大きくなるばかり」と書かれていたことがありました。私は、忘れることは決してなくても、時間が少しずつ悲しみや寂しさ、辛さを和らげてくれるものだと思っていました。しかし、必ずしもそうではないことを、その時も、そして今回も改めて教えていただきました。だからこそ、震災から15年が経った今も、被災された方々がどのような思いで日々を過ごされているのかを、私自身の物差しで考えてはいけないなと感じました。
悲しみが消えることはないと思います。それでも、少しずつでも穏やかな時間が増え、元気で笑顔に過ごせる日々が重なっていくことを心から願っています。もし今、こんなにも素敵なお母様と一緒に史織ちゃんともお会いし、笑顔でお話できていたらいいな…そんなことを思わずにはいられませんでした。史織ちゃんが繋いでくれたご家族とのご縁をこれからも大切にしていきたいと思います。
前回に引き続き少し長くなりましたが…
今回の東北旅でも沢山の温かさに触れ、改めて「人との繋がり」の尊さを感じる時間となりました。つ一つの出会いに感謝し、その想いを大切に繋いでいきたいと思います。改めまして、史織さんのお母様、この度は大切なお時間を共に過ごさせていただき、本当にありがとうございました。

